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大正関東地震の概要

地震の震源及び規模等
地震発生時刻 1923年(大正12年)9月1日 午前11時58分
発生場所(震源位置) 北緯35度19.8分 東経139度08.1分
神奈川県西部 深さ23km
規模(マグニチュード) 7.9
最大震度 6(※)

 1923年(大正12年)9月1日11時58分、神奈川県西部の北緯35度19.8分、東経139度08.1分、深さ23キロメートルを震源とするマグニチュード7.9の地震(大正関東地震)が発生しました。

 この地震により、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県で震度6を観測したほか、北海道道南から中国・四国地方にかけての広い範囲で震度5から震度1を観測しました。(※当時の震度階級は震度0から震度6までの7階級でしたが、家屋の倒壊状況などから相模湾沿岸地域や房総半島南端では、現在の震度7相当の揺れであったと推定されています)

 この地震では、発生が昼食の時間と重なった事から、多くの火災が起きて被害が拡大しました。また、津波、土砂災害なども発生し、死者・行方不明者は10万5千人余(理科年表より)にのぼりました。この地震によって生じた災害は「関東大震災」と呼ばれています。

 関東大震災の被害写真等はこちらをご覧ください。

被害写真1 被害写真2 被害写真3 被害写真4

関東大震災と天気

 「関東大震災調査報告 気象編」(藤原咲平,1924)によれば、9月1日6時には、金沢の西海上に台風があり、 10時になると秩父付近に副低気圧が発生した影響で、東京では午前中時々少雨がありました。副低気圧は14時には不明瞭となり、台風は18時には三陸海岸へ進んだため、東京では午後は天気が回復し全く雨が降りませんでした(図1)。 台風の後面には不連続線(前線)を伴っていたとみられ、夕方から夜にかけて関東地方を通過するまでは東京は南風でしたが、通過後は西~北風と風向が急変しました。不連続線の通過後、東京では火災旋風が発生し、元衛町(中央気象台、現:千代田区)の気温は火災により正式な観測値が得られませんでしたが、測器の記録は大幅に上昇して2日はじめには45℃以上にまで達しました(図2)。

天気図 気象の変化
図1
図2

※火災旋風とは

 火災時に火災域やその周辺で発生する竜巻状の渦のこと。火柱状の渦もあれば、炎を含まない渦柱もある。火災旋風の猛烈な風は、人や物を吹き飛ばして死傷者を出す。火の粉を広範囲に飛ばし、急速な延焼拡大をもたらす。(「地震火災から命を守る」(総務省)より)

図1出典:中央気象台, 関東大震災調査報告. 気象篇(藤原咲平)
図2出典:内閣府,災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年7月 1923 関東大震災(内閣府防災情報のページへのリンク)


関東大震災と土砂災害

 大正関東地震では関東南部の山地や丘陵地、台地の縁辺部で地震による強い揺れによって地すべり、土石流などによる土砂災害が多数発生しました。土砂災害が多発した理由として、大正関東地震によって非常に大きな震動受けたことが主因ですが、前日にかなりの降雨があったことも大きな理由となっています。(内閣府,災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年7月1923 関東大震災より)
 神奈川県小田原市内の根府川駅(ねぶかわえき)では、列車が駅に入る際に土石流が発生し、列車が海へ転落してしまうなど大きな被害(根府川駅列車転落事故)が発生しました。
 また、現在神奈川県秦野市と中井町にまたがる震生湖(しんせいこ)のように、土石流が河道を閉塞することで、堰止湖(せきとめこ)ができるなど、その地域の地形を大きく変化させてしまうほどの規模であったことを推し量ることができます。

片浦村米神山津波末端 震生湖
片浦村米神の土石流末端
震生湖(2022年11月撮影)

関東大震災と津波

 大正関東地震は、震源域が相模湾内にあったため、三浦半島から伊豆半島東岸に高さ数m以上の津波をもたらしました。早いところでは地震後5分程度で津波が襲来し、津波の高さは静岡県の熱海で12m、房総半島の相浜で9.3mとなりました。(内閣府,災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年7月1923 関東大震災より)

伊東津波被害
伊東海岸津波の跡

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