三陸津波警報組織
太平洋戦争が始まる3か月前の昭和16年(1941年)9月11日、仙台地方気象台において、「津波常襲地」と呼ばれ過去に繰り返し津波の被害を受けてきた三陸沿岸に対して、津波予報を実施する組織が発足しました。
発表範囲は三陸沿岸のみでしたが、その後日本全国へと広がりを見せ、現在では津波警報は、防災・減災に欠かすことのできないものとなっています。
1 発足の背景
明治29年(1896年)及び昭和8年(1933年)の三陸沖の地震による津波は、三陸沿岸に甚大な被害をもたらしました。
当時の仙台地方気象台長の森田稔は、「繰り返し同じ被害を経験したにもかかわらず、将来も過去と同様に津波の挙動のなすがままにまかせ、過去と同様の被害を甘受するのは、科学の恥辱である」との考えから、津波警報組織の導入について昭和10年代初頭から検討を開始しました。その後の議論を経て、昭和16年(1941年)9月11日に仙台地方気象台は、「津波対策ニ関スル件決定条項」を定め、仙台地方気象台を中心とした管内8気象官署※1(仙台、青森、八戸、盛岡、宮古、石巻、福島、小名浜)による三陸津波警報組織が発足しました。
2 警報の階級
「津波対策ニ関スル件決定条項」では、津波高が高い順から「津波警報3」、「津波警報2」、「津波警報1」の3段階の階級と、「津波警報解除」が定められました。これらは、その後の津波予報業務における基礎的なものとされています。また当時の仙台管区気象台長(仙台地方気象台から改称)の森田稔は、戦後間もない昭和21年(1946年)に、三陸地方の小学生を対象とした「津浪のよけ方」を発刊し、警報の階級をわかりやすく解説しました。
森田稔は、警報文が簡単明瞭な内容で、かつ誤解を招く語句を用いないことを重視しました。また、「津波警報発表中は、津波が認められない場合でも油断は禁物」であることを強調するため、海面が平常な状態に戻った場合においても発表することを心がけました。
三陸津波警報組織発足(昭和16年)から全国的な津波警報体制確立(昭和24年)までの8年間は、東南海地震(昭和19年)や南海地震(昭和21年)などの大地震が全国的に続発しましたが、三陸地方が震源でなかったことも幸いし、津波予報の発表はありませんでした。なお日本初の津波予報は、全国的な津波警報体制確立後の昭和25年(1950年)に発生したオホーツク海南部の地震において、東北地方の太平洋沿岸等に発表された「ツナミナシ」となります。
表1警報の階級
| 警報の階級 | 解説 | 警報文 |
|---|---|---|
| 津波警報3 | 4~5m以上 | 只今ノ地震ハ大津浪ヲ伴フ見込ミデスカラ山ノ手ニ避難ヲ要シマス。 |
| 津波警報2 | 2~3m | 只今ノ地震ハ津浪ヲ伴フ見込ミデスカラ警戒ヲ要シマス。 |
| 津波警報1 | 1m以下 | 只今ノ地震ニハ軽微ナ津浪ガアルカモシレマセンカラ注意ヲ要シマス。 |
図1森田稔著「津浪のよけ方」
仙台管区気象台における安全知識の普及啓発の原点とされる資料です。
3 警報の伝達体制
津波警報は、各気象官署が独自に津波の有無を判定したうえで、放送局(現在のNHK)や警察部(現在の都道府県警察)に対して電話により伝達される体制でした。伝達を受けた放送局は臨時放送により、また警察部は警察電話により管下の各警察署・各派出所などに伝達し、住民に知らせるというものでした。
4 津波避難訓練
三陸津波警報組織では避難訓練を重視しており、昭和三陸津波の発生日に合わせて昭和19年(1944年)3月3日に、第1回の津波避難訓練が行われ、気象官署、警察、役場、住民などが参加しました。津波被害の軽減のためには、定期的な訓練の実施が不可欠であるとされ、以降は毎年3月3日に訓練が実施されることとなり、現在においても三陸地方では、この日に合わせて訓練が行われているところがあります。
図2大船渡における津波避難訓練の様子
サイレンの合図によりバスの車掌が一斉に配置についています。
5 全国的な津波警報体制へ
昭和24年(1949年)に閣議了承された「津波予報伝達総合計画」により、全国を15ブロックに区分けする津波警報体制が確立しました。これにより、三陸津波警報組織は全国へと広がりを見せました。
また、昭和27年(1952年)には気象官署津波業務規程、気象業務法、気象業務法施行令が相次いで定められ、これらに「津波予報伝達総合計画」の内容が盛り込まれたことにより、法律に基づく津波予報体制が確立しました。
図3平成初期の仙台管区気象台地震現業室
①現業室全景、②津波予報作成画面
なお、平成30年に地震現業業務は、気象庁本庁(東京都)と大阪管区気象台(大阪府)に集約されました。
図4昭和27年の気象記念日に、中央気象台長(現在の気象庁長官)から表彰を受けました。