1980年のクリスマス~五六豪雪~
昭和55年12月当時、入庁2年目の私は会計課管財係で国有財産管理や営繕事務の仕事をしていました。仙台管区気象台の構内にあった悠雲寮に住んでいましたが、気象台創立の大正15年から庁舎として使用していたものを宿舎に改築したため、天井が高く、すきま風が容赦なく入ってきて、冬は本当に寒かったですね。昭和55年の冬は、仙台でも12月上旬頃からかなり寒く、12月14日には仙台でも積雪深30㎝を記録する大雪となりましたが、その時は鉄塔の倒壊やそれに伴う停電は起こりませんでした。
図1雪に覆われた庁舎
そして迎えた12月24日の水曜日、天気予報では「南岸低気圧通過に伴い、降雪あり」とありましたが、10日前と同程度の降雪はあるかもしれないけど、大規模な停電被害が出るとは思ってもみませんでした。しかし朝から雪の降り方が激しく、当時は合同庁舎移転を控えていたため、仮設車庫に官用車を入庫させていましたが、昼頃には屋根を支える梁や桁が、雪の重みで湾曲し始めてしまいました。そのため昼食を途中で中断して、管財係長と私とで雪下ろしを行いました。
図2当時の仙台管区気象台の施設配置
庁舎北側を⾛る国道45号線の電柱にある変圧器から、断線によるものと思われる⾳と⽕花を⽬撃したのは、まだ明るい時間帯だったので、15時頃ではなかったかと思います。その少し前に庁内電気設備担当が非常用発動発電機を稼働させていたため、なんとか業務を継続することができました。また、停電ではありませんが、構内の鉄塔(地上2基、屋上1基)間に展開していた空中線(当時の通信⼿段であるVHFアンテナ、模写伝送装置アンテナ)が、予備を残して雪の付着により⾳を⽴てて断線しました。残った予備線を⽀えていた屋上鉄塔の上部が曲がってしまったため、⾃転⾞置場にあった⽵竿を屋上まで持って⾏き、空中線を叩いて雪を下ろして、さらなる断線と鉄塔の倒壊を防ぎました。
日没後に庁舎の周辺を見渡してみると、一面真っ暗でしたね。雪の重みによる鉄塔の倒壊などにより仙台市内の広範囲で停電が起きていました。信号も止まり国道45号線は大渋滞で、発電機やボイラーの補給燃料の運搬車両がなかなか到着しませんでした。夜間の対応は基本的には当番者が行い、大雪のために帰宅できない職員が応援として対応していました。現在であれば夜間対応に各課から待機要員を出すような事態ですが、あの日総務課や会計課は、帰宅可能な職員から順次帰宅していたと思うので、危機管理の意識が現在ほどは高くなく、体制も整備はされていなかったと思います。
悠雲寮に戻ってからの夕食ですが、停電のため炊飯器は使えませんでしたが、ガスは使うことができました。寮には食事をする場所があったのですが、そこで寮生各自が持ち寄った乾麺(袋ラーメン、袋そば)、玉うどん、焼きそば麺と、誰かが購入した野菜(大根、人参)と、こんにゃくを一つの鍋に入れ、味付けは袋ラーメンの粉スープで…ラーメンやそばは麺が伸びていましたが、焼きそば麺は硬く、「なんとしたクリスマスイブだべなぁ…」と語り合ったのを覚えています。
12月24日の最深積雪は33㎝で、実は10日前の12月14日の最深積雪34㎝よりも少なかったのです。それでも鉄塔が軒並み倒壊し、大規模停電の被害が出たということは、この日の雪質が水気が多く重たい「ベタ雪」だったからでしょうね。仙台市内の停電が解消されたのは12月27日でしたが、それまでには仙台管区気象台でも停電から復旧して、業務も落ち着きを取り戻し、新年へと歩みを進めることになります。被害を受けた設備(空中線、屋上鉄塔)の復旧は、年が明けて1月に行ったと記憶しています。ただ合同庁舎移転を控えていたため、本格復旧ではなく仮復旧となりました。
今年で仙台管区気象台は100周年を迎えましたが、私はその半分近くの47年間も勤務したことになります。その間様々な災害を経験する中で、五六豪雪の頃とは技術や危機管理に対する意識も格段に向上しました。ただ、いざという時に大切になってくるのは、あの日に被害の拡大を防ぐべく雪下ろしなどを行った「人の力」ではないかと思います。仙台管区気象台には、これからも「人を大切にする組織」であり続けて欲しいですね。