災害報道の現場から~東日本台風~
1 懐かしの白い風船
私が生まれ育ったのは仙台市宮城野区です。小学校は榴岡小学校、中学校は宮城野中学校、子どもの頃の遊び場は榴岡公園でした。通学の時も、学校からも、遊ぶ時も、いつでもあの白い球体のついた仙台管区気象台の建物が見えていたため、あるのが当然くらいの身近な存在でした。サクラの開花予想も、気象台の標本木で観測していることを知っていたので、自分の身近な場所で予想されていることが、子どもながらにちょっとした誇りでもありました。
かつて仙台管区気象台からは、風船のようなものが毎日飛ばされていました。色は白だったと記憶しています。その風船が飛んでいるのも小さい頃の日常の光景だったため、あまり気にもしていなかったのですが、ある日兄から「あれは天気予報のために、気象台が飛ばしているんだ」と聞かされました。「あの風船で一体何を観測しているんだろう。どんなものが積まれているんだろう…」と、いろいろと想像を巡らせながら眺めていたことを思い出します。
風の強い日には、どんどん流されていき、風のない日にはゆっくりと高く上っていく気象台の風船。兄と一緒に自宅の屋根に上り、青空に浮かぶ風船が消えていくまで、「最後はどこまで飛んで、どうなっちゃうだろう…」と思いながら、飽きずにずっと眺めていました。私が今でも鮮やかに思い浮かべる、子どもの頃の懐かしい記憶です。
図1ゾンデ(風船)放球風景
2 東日本台風(台風19号)における東北放送の報道態勢
台風19号※1当時は、テレビニュース全体の責任者である報道制作局報道部長を務めていました。業務は多岐に渡り、記者・カメラマン等の日々の取材態勢、中継、ヘリコプターの態勢の決定や毎日のシフト、労務管理。JNN各局から応援に入る記者・カメラマンの方々の配置、応援各局の中継車の配置の決定や応援に入っていただいた方々の宿の手配。全国ニュースの内容等についての、TBSテレビとのやり取りや特別番組編成についてのtbc社内での調整、特別番組の内容・構成についての調整やラジオへの生出演等々…。
tbcの非常態勢は10月12日(土)の早朝から組みました。12日~14日(月)の3日間は、デスク、記者、カメラマン、気象予報士、宮城県内の各支局、キャスターはほぼ全員態勢で臨みました。中継等のため技術社員にも出てもらいました。それでも人が足りなかったので、テレビ制作部のディレクター等の力も借り、総勢50人規模の態勢を組みました。12日の夕方までは亘理町の海沿いで中継をしたり、県内各地の屋外で風雨の状況を取材していましたが、徐々に状況が悪くなり危険になったので、夕方以降は屋外での中継、取材は全て禁止に…。中継は仙台市中心部のオフィスビルの室内や、東北地方整備局内からとなり、記者も県庁や県警などの記者クラブに詰めて、被害状況の取材に当たりました。
12日深夜に大雨特別警報が出されたため、気象予報士出演で複数回ローカル番組を組んだり、全国ニュースで宮城の状況を伝えました。13日(日)早朝に特別警報が解除され、日も昇ったため、取材クルーや中継車は県内各地に被害状況の取材に入りました。ヘリコプターもアナウンサーとカメラマンを乗せてフライトし、県南の広範囲の水没や丸森町の土砂崩れ、大郷町の吉田川決壊の様子を撮影しました。14日にはJNN各局の応援が入ってくれたため、tbcの記者、カメラマン等のスタッフは、15日(火)から交互に休みを取りながら連日取材や中継に当たりました。
3 衝撃の空撮映像、そして見えてきたもの
13日朝にヘリコプターから生で送られてきた県南の水没状況の映像を見た時には、東日本大震災以来の衝撃を受け、言葉を失いました。前夜から雨量や雨雲、河川の水位などを確認しながら朝を迎えていたため、ある程度の被害は予想してはいたものの、水没の範囲とその被害は、予想をはるかに超えていました。あの時の衝撃は今でも鮮明に覚えています。
私としては万全の態勢で台風19号に向き合ったつもりです。ただ宮城はあまり雨による被害を経験していなかったこともあり、意識のどこかで、被害想定を低く見てしまっていたのかもしれません。反省点はいろいろとあります。県南は水没範囲が広かったため、「どこの被害が特にひどいのか」の状況を掴むことがなかなかできず、当初は取材が散漫となり、視聴者に被害の実態をうまく伝えることができませんでした。
「丸森町役場が水没している」という情報はいち早く掴んでいたため、13日早朝に中継車を向かわせましたが、「主要道は渋滞などで通れないのではないか」という想定で回り道をしたところ、冠水や倒木などで通ることができず、結局丸森町への到着が正午頃になってしまったのも苦い経験です。丸森町では携帯電話がつながりづらい状況となったため、記者やカメラマンとの連絡がなかなか取れず、同じ場所をtbcのカメラが複数台で取材するという指揮系統の乱れもありました。これを受け、15日からは丸森町役場に現場デスクを置いて取材を取り仕切るようにしたため、指揮系統は明確になりました。「現場にデスクを置く」という発想がすぐに出てこなかったのは、私の大きな反省点です。
また丸森町は役場が水没するほどの被害を受けたため、当初は「町としての被害情報」の収集もままなりませんでした。町からの情報に頼らず、現場に入った記者が自ら情報を集めて取材する必要がありました。東日本大震災から8年以上が経っていて、災害取材の経験が少ない記者が増えていたこともあり、取材が滞ってしまったケースもありました。
さらに、丸森町ではしばらく「避難指示」が出されていました。この中でどのように取材するのかは大いに迷いました。結局は安全に最大限に配慮しながら、町内での取材を行いましたが、中継はすぐに避難できるように町役場の3階からや、避難所の体育館から入れる対応を取りました。「避難指示」の中での安全な取材活動という、難しい局面に立たされたケースでした。丸森町の取材では16日(水)、17日(木)頃から路面が乾き始め、風や車両の通過で、粉塵がもうもうと巻き上がるようになりました。視界が遮られるほどの粉塵だったため、取材クルーの健康のために急遽マスクを持たせる事態となりました。これは全く想定外のできごとでした。
4 災害報道で大切にしていること
これから起きそうなことや、取るべき行動のイメージがつくような放送を心がけています。例えば「雨量の予測が24時間で多い所で200ミリです、平年の1ヶ月分の雨量よりも多い数字です」などと言われても、想像がつきにくいことが多かったので、過去にあった現象と照らし合わせて「似たような事例では、こういった被害が起きたことがある」といった情報を盛り込むようにしています。テレビの場合は、そのような過去事例の映像なども使うようにしています。
気象の世界では、どうしても専門用語が多くなりがちですが、難しいことを言っても、理解されなければ意味がありません。なるべく老若男女が分かるような平易な言葉とイラスト等を使うようにしています。また一口に災害報道と言っても「今すぐ避難が必要なのか」、それとも「いつでも避難できるように準備をしておくのか」でも、使う言葉やアナウンサーの呼び掛ける声のトーンが異なります。災害報道の中身によってそれぞれ考えて、使い分けて伝えるようにしています。
図2tbc気象台がある東北放送本社
5 tbc気象台の役割
tbcでは平成13年にtbc気象台を開設し、以来四半世紀に渡り宮城県民の方々に情報を提供しています。報道機関や気象予報士の役割として、天気をただ伝えるだけではなく、天気に興味を持ってもらう、さらには視聴者の方々に気象リテラシーを高めていただくことが、tbc気象台における究極の目標だと思っています。そのためには、まず多くの人に天気予報を見てもらうことが必要で、特に朝の「ウォッチン!みやぎ」では「人間アメダス」をはじめとした視聴者とのやり取りや、その日の天気におすすめの服装を着せた人形の活用、寒さや雪の強さを寸劇で表現した「冬将軍劇場」など「見せる天気予報」を意識してきました。一方、予報そのものの特色は、やはり県内31地点のピンポイント独自予報です。気象庁から入ってくる様々なデータをベースにしつつ、例えば秋~春の晴れた日における最低気温の誤差の傾向を算出し、あえて修正を加えたりすることもあります。外れてしまうこともありますが、10年以上前から「tbc気象台ノート」を毎日書き込み、特異な事例については考えられる原因などを、予報士全員で共有するようにしています。
tbcは県内の放送局で唯一、独自予報を出せる局として、天気予報を分かりやすく、楽しく伝え続けてきました。フロントランナーとして天気予報を「見せるコンテンツ」に育ててきたという自負は持っています。だからと言って、仙台管区気象台のライバルになろうという考えでは決してありません。気象台さんとはこれからも協力し合いながら、天気予報の情報の価値をさらに高めて、県民の方々により身近な役立つ情報をお届けできるように、頑張っていきたいと思っています。これからも気象台さんのご支援、ご協力をよろしくお願いします。
図3「ウォッチン!みやぎ」の天気予報コーナー
6 災害報道の課題
テレビ・ラジオももちろんですが、昨今はWEB記事などでも大雨・大雪や暑さ・寒さについての記事がかなり多く読まれる傾向にあります。ただあまりにもオーバーな表現を使った「煽り」とも呼ばれる記事はメディアの信用を失い、「オオカミ少年」的な意識につながり、本当に危険だという記事を書いても、それが正しく伝わらないこともあり得ます。そうしたことを常に考慮しつつ、視聴者を引きつけられる見せ方・伝え方を追求していくことが、tbcだけでなくメディア全体の課題だと思います。
また豪雨災害等が増加する中で、報道する側も安全を確保しながらの取材が重要です。現場に行くと、被害の様子を伝えるために、記者やカメラマンはどうしても危険な場所にも足を踏み入れようとしてしまいます。しかし取材活動において、命を落とす人間が出ることは絶対に避けなければなりません。記者、カメラマン一人一人の意識はもちろん重要ですが、本社等にいる人間のバックアップが欠かせないと考えています。現場と本社側の情報の共有やこまめな相談により、場合によっては取材を断念し、撤退する勇気も必要だと思っています。
7 北海道・三陸沖後発地震注意情報の課題
やはり知名度がまだまだ低い情報だと思います。テレビをご覧いただいている年齢層の方々には、昨年(令和7年)12月の発表で、ある程度浸透したと思いますが、テレビ、ラジオに触れないような方は、言葉すら聞いたことがない可能性があります。気象台にはSNSの活用や街頭活動で地道にPRしてもらう必要があるのではないでしょうか。また長い名称は、調べようとする時にどうしても抵抗があり、浸透を阻んでいる気がします。報道機関としては例えば東日本大震災の先発地震があった「3月9日」には毎年必ずこの情報について伝える、などが周知を図るポイントかもしれません。震災当時宮城にいなかった人や子どもたちは、3月9日の地震のことを知らない人も多いでしょうし…。
先発地震が大きい場合、報道としては当然、その地震による被害や津波警報・注意報についてを中心に伝えるため、先発地震から2時間後に北海道・三陸沖後発地震注意情報が出されても、情報としては埋没してしまう恐れがあります。メディアとしても、いかに埋没させずに後発地震への注意を呼び掛けるかは、考えていかなければならない課題だと思います。また後発地震注意情報は、発表されなければ発表されない程良いのですが、そうなると逆に県民の方々から忘れられてしまうというジレンマがあります。県民の方々に思い起こしてもらうためにも、気象台とメディアがタッグを組んで、定期的に「後発地震注意情報とは何か」をわかりやすくテレビ、ラジオ、WEB等で伝えていく努力は必要だと思います。
8 気象台に望むこと
様々な防災気象情報やそれに伴うホームページの充実が図られてきた点については、私たちも大変助かっています。一方で残念なのが、令和4年度限りで毎月行われていた気象台の定例会見が終わってしまったことです。出席者は確かに少なくなっていましたが、tbcでは必ず毎月予報士が参加しておりました。長期予報の解説についてはもちろん、普段の業務ではあまり触れない地震・津波・火山についても、知識をアップデートできる貴重な場であっただけに惜しく感じます。近年、気象や防災に対するメディアの注目度が高まっていることを考えると、復活すればまた参加者も増えるかもしれません。オンラインでの会見も含めて検討していただけると嬉しいですね。
また天気は五感で感じるものなので、デジタル技術が進んでも、やはり人間の目や耳や香りで判断する部分は、いつまでも残していってもらいたいです。効率化や働き方改革の問題はあるかと思いますが、初霜、初氷の発表は個人的には続けていただきたかったですね。できれば復活を!
9 これからの100年
「天気」は、私たちにとって毎日の挨拶にもなるような最も身近な関心事です。これからの100年でも、それは変わらないだろうと私は思っています。私たちの生活が、より豊かで楽しくなるように、天気予報がさらに進化することを期待しています。また私たちの子どもや孫たちが、安全・安心に暮らすためにも、線状降水帯や台風進路、地震の発生などについても、さらに高い精度で予想できるようになることを願っています。一方で、天気が身近な存在だけに、人の体温は残して欲しいなと思います。サクラの開花予想のように、技術の進化に頼らない、職員の方が目で見て判断するような人間臭い部分は、気象台の重要な業務としていつまでも続けて欲しいですね。
この100年でも気候が大きく変動してきましたが、次の100年も地球温暖化がこのまま止まらなければ、様々な変化が起こるはずです。かつての宮城はたびたび冷夏がありましたが、近年は猛暑が常態化しています。豪雨災害は激甚化が予想されるほか、冬は温暖化で寒波が来やすくなるという専門家もいます。気象台からは「東北地方の気候の変化」などが刊行されていますが、ぜひこれをもっと広くPRするとともに、気候変動に関するさらなる知見を、他の機関とも協力しながら深めていかれることを期待しています。また、AIの進化が進むなかで、気象庁・気象台がそれをどう予報業務に取り入れ活用していくかも注目していきたいと思っています。
図4満開の仙台管区気象台桜標本木