伊豆大島火山について

はじめに

 「伊豆大島火山」は、島そのものが一個の活火山です。主に玄武岩で構成され、ストロンボリ式という比較的穏やかな噴火をすることが多く、数多くの噴火記録が残されています。山頂火口の火映現象は古くから「御神火」と呼ばれ、歌にも唄われるなどしてきました。しかし、1986年11月の割れ目噴火では、大規模な溶岩噴泉、溶岩流が生じ、前例を見ない全島民避難という事態に到りました。
 火山は噴火に際しては大きな災害になる恐れがありますが、雄大な景観や温泉、良港といった恵みをもたらしてくれるものでもあります。大島には縄文時代から人々が住み着き、火山と共に暮らしてきました。

伊豆大島の地形

 伊豆大島は東京の南南西約110km、伊豆半島の東方海上に浮かぶ活火山の島です。伊豆諸島からマリアナ諸島へ連なる火山島のうち、最も北に位置します。
 島内最高点である三原山山頂の標高は758mですが、海底部分まで含めると1000m程度の高さになります。島の形は北北西~南南東方向に伸びた形をしており、長径約15km、短径約9kmです。島の北部から東部、ならびに南西部には高さ約350m(東部)に達する海食崖が発達しています。
 山頂部には径約4kmほどのカルデラがあります。カルデラの西半分はカルデラ壁が明瞭ですが、東半分は後の噴出物に埋められてはっきりしません。カルデラ内南部には中央火口丘三原山があり、山頂火口の径は約800m、さらにその中央には径約300mの竪穴状火孔があります。

外輪山展望台から三原山

外輪山展望台から三原山

新火口展望台から三原山

新火口展望台から三原山

火孔南展望台から中央火口

火孔南展望台から中央火口

伊豆大島の誕生

 現在の伊豆大島の下には、岡田火山、行者窟火山、筆島火山の三つの古い火山が隠れています。乳ヶ崎~岡田~筆島にかけての海岸に急な崖があるのは、古い火山が露出しているからです。三つの火山が活動していたのは遥か昔、数十万年も前のことです。
 伊豆大島火山は今から数万年前、侵食の進んだこれら三つの火山の近くに海底火山として誕生しました。誕生まもない伊豆大島火山の火口は海面近くにありました。地下から上がってきたマグマは水と接触して、激しい噴火を繰り返しました。噴出物が火口のまわりに積もり、火口が海面から顔を出し、現在の大島の形がほぼ出来上がったのは約2万年前の事でした。
 最近1万数千年間は、およそ100年から150年間隔で数億トンの噴出物を出す大規模噴火を起こしています。島の南西部の一周道路沿いの「地層大切断面」にはこれらの大規模噴火で降り積もった地層を見る事ができます。

筆島

筆島

筆島海岸

筆島海岸

地層大切断面

地層大切断面

過去の火山活動

 伊豆大島の噴火を記録した古文書は数多く残されています。最も古い噴火の記録は『日本書紀』に記録された684年(天武13)のものです。古文書の記録と、その時の噴出物の地層を比べながら調べていくと、噴火の位置、継続時間、爆発の強さなどいろいろな事実が明らかになります。最近12回の大噴火は特に詳しく調べられています。
 3~5世紀の噴火の時には、山頂からの噴火、東側と北側での割れ目噴火に続いて、山頂での水蒸気爆発、カルデラの形成、岩なだれなどが起こりました。この岩なだれの堆積物は元町北側の海岸を埋め尽くしました。この噴火の前は、伊豆大島は、標高1,000m近い富士山の様な姿をした山だったと考えられています。
 9世紀中頃の噴火では、南東部海岸付近で割れ目噴火が起こりました。この時マグマと地下水が接触して、マグマ水蒸気爆発が起こって池ができました。この池は1703年(元禄16)の元禄地震の津波で海とつながり、更に人工的に入り江を拡張したのが現在の波浮の港です。

波浮港1

波浮港

波浮港2

波浮港

 1421年(応永28)の噴火でも南斜面に割れ目噴火が起こり、延長線上の海岸でマグマ水蒸気爆発が起りました。この噴火の時、山頂から噴出した溶岩はカルデラの北東端からわずかに溢れ出しました。それ以前の噴火では、山頂からの溶岩はできたばかりのカルデラを埋めるのに使われたため、カルデラの外にあふれ出る事は無かったと考えられています。
 最も近年の大噴火である安永の噴火は、1777年(安永6)8月31日、山頂火口からの噴火(スコリア噴出)で始まりました。この時には、現在の三原山の位置に直径1kmの深いクレーターがあるだけで、中央火口丘は無かったようです。翌1778年4月までには、火口付近にスコリアが厚く積もり、現在の三原山ができあがりました。その後、できたばかりの三原山から溶岩流が北東方向に流出し、東海岸まで流れ下りました。その後も噴火が続き、16年間の噴出物の総量は6.5億トンになりました。
 安永の噴火後、1912~1914年、1950~1951年の2回の中噴火がありました。しかし、噴出物総量はいずれも約4千万トンと安永の噴火より1桁小さいものです。

1951年噴火 溶岩流 (1951年3月9日)

1951年噴火 溶岩流
1951年3月9日

1951年噴火 噴煙 (1951年4月16日)

1951年噴火 噴煙
1951年4月16日

1951年噴火 噴火 (1951年4月18日)

1951年噴火
1951年4月18日

1986年(昭和61年)噴火

 1986年7月、12年ぶりに火山性微動が観測され、10月27日から連続微動となりました。11月12日に竪穴状火孔壁から噴気が上がっているのが目撃されました。
 11月15日17時25分ごろ竪穴状火孔南壁(A火口)で噴火が始りました。赤熱溶岩・火山弾・スコリアを200~500mの高さまで噴き上げる溶岩噴泉の活動が続き、噴煙は高さ3,000mに達しました。
 これらの活動に伴い、噴出物によって深さ約230m、直径約300mの火孔は次第に満たされていきました。そして、火孔からあふれた溶岩は、三原山火口を埋め尽くし、19日10時35分ごろ火口の北西縁を越え、溶岩流となってカルデラ床まで流れ下りました。

火孔壁の噴気 1986年11月14日

火孔壁の新たな噴気
1986年11月14日

A火口噴火 1986年11月16日

A火口噴火
1986年11月16日

A火口噴火 1986年11月16日

A火口噴火
1986年11月16日

溶岩流 1986年11月19日

溶岩流
1986年11月19日


 11月21日14時頃からカルデラ北部で地震が群発するようになり、測候所で有感地震を観測しました。16時15分、三原山北部のカルデラ床で、北西~南東方向の割れ目噴火が始りました。(B火口列)
 B火口列は大規模な溶岩噴泉活動を続け、北方と北東方向に溶岩が流出しました。噴煙柱は高度16,000mに達し、風によって流されたスコリア・火山灰が島の東部に降り積りました。
 同日17時46分にB火口列の延長線上カルデラ外の北西斜面で新たな割れ目噴火が始り(C火口列)、18時頃には溶岩が流れ下り始めました。溶岩流は谷沿いに元町に向かって流れ下り、町外れにある元町火葬場から70mの地点にまで達しました。

B火口噴火 1986年11月21日

B火口噴火
1986年11月21日

C火口噴火 1986年11月21日

C火口噴火
1986年11月21日


 大島町合同対策本部は21日夜、全島民に対して島外避難命令を出し、22日昼過ぎまでに、およそ1万1,000人の島民と、2,000人の観光客が無事に下田、稲取、伊東、熱海、東京に到着しました。島民はその後約1ヶ月にわたり島外での避難生活を強いられました。
 21日夜半から22日未明にかけてA火口、C火口列での噴火はおさまり、B火口列での噴火も23日までにはおさまりました。11月15日~23日の噴出物量は約6~8千万トンと推定されています。

 1年後の1987年11月16日、三原山山頂で爆発が起り、竪穴状火孔を満たしていた溶岩の破片が周辺に飛散り、火孔は約30m陥没しました。11月18日にも噴火し、陥没により直径350~400m、深さ約150mの竪穴状火孔が再現しました。
 その後、1988年1月25、27日、1990年10月4日にも小噴火がありました。

火映現象 1987年11月18日

火映現象
1987年11月18日


参考文献

  • 「生きている地球の体験~伊豆大島大噴火の記録~」東京都大島町1987年
  • 「伊豆諸島における火山噴火の特質等に関する調査・研究報告」(大島編)東京都防災会議1990年
  • 記録に残る火山活動